起源の物語
私の祖母について
私が会社を設立した理由をお話するためには、まず、祖母のことをお話する必要があります。
祖母は、強烈な自負心のある人でした。いつも気を張り、誰にも隙や弱みを見せないようにしたような気がします。習字や俳句、生け花が好きで、自宅でもよく練習していて、「ちっとも上手にならん」といつも嘆いていました。
私にとっては、半分怖いような祖母でしたが、遊びに行けばホットケーキを焼いてくれたり、誕生日にはプレゼントをくれたり、祖母なりの愛情を私たちに沢山そそいでくれたことは疑いようがありません。
祖母は、三人の子どもたちがそれぞれに独立し祖父も亡くなってからはずっと、庭のある大きな家に一人で住んでいました。ひんやりとして少し薄暗い玄関の戸を開け、「ばあちゃん、いる~?」と声を掛けながら中に入ると、彼女はテレビの前の大きな革張りのソファセットは使わずに床に座ってお茶を飲んでいたり、台所で何か作業をしていたりしました。
月日が流れ、祖母は年を取り、骨折を契機に急速に体力が衰え、アルツハイマー病の診断を受けました。ゆっくりと下り坂を降りていく祖母を、近くに住んでいた私の両親だけでは支えきれないということになり、療養型の病院に入って、最終的にそのままそこで息を引き取りました。
あれは、祖母が亡くなるまだ何年も前のことでした。ちょうどその時、何かの処置が必要で別の急性期の病院に入っていた祖母を見舞いに行ったとき、祖母は嚥下食をスプーンでうまくすくって食べることができず、病室で看護師さんに怒られていました。一通りの業務を済ませて看護師さんが足早に部屋を出ていった後、祖母は私に向かってというよりもまるで自分に向かって語り掛けているような声で呻くように言いました。
「こんなおぞい(汚い)、おぞいものに成り果ててもうなんて、思ってもみんかった」
私は、とっさに何も言葉を返すことが出来ませんでした。時が凍ってしまったように感じられたその瞬間、私はただそこに立ち尽くしていたような気がします。
「ばあちゃんは、おぞくなんかないよ」
あの時、そう断言すれば良かったというのは、きっと私が死ぬ日まで抱えていく後悔の一つです。
生きている祖母を私が最後に見た時、病室のベッドに横たわっていた彼女は、白く透きとおるように綺麗でした。祖母を祖母たらしめていた、そしておそらくながくにわたって彼女を苦しめてもきた、あの強烈な自負心が、そこにはもう見られませんでした。そのことを寂しく感じつつ、一方でこれはおそらく喜ぶべきことだとも思いました。人は、自分をこの世に繋ぎ留めていたものをひとつひとつ手離し、まるで半分もう天使になってしまったかのような顔をして、最後の旅路を行くのです。それは私に、入滅という仏教の言葉を思い出させました。
その祖母の死以来、私はずっと考えています。
人が、家族だけに依存せずに、楽しく年を取り、安らかに最期を迎えるためには、何が必要なのだろうと。
晩年の祖母は、きっと幸せではなかった。誰かの役に立つことはできず、ただ好意にすがって一方的に世話をされるだけになってしまったことを、おそらく彼女は呪っていた。
それは、超高齢化社会を迎え、支える側と支えられる側という構造では既に持続可能性がない、日本という国のマクロ環境が我々全員に突き付ける課題です。
祖母の行った道は、やがて私の両親が行く道であり、私自身も辿るであろう道です。我々はみな、やがて年老い死んでいきます。それは、いわば確実に予言された未来です。
ゆっくりと衰えていく自分の体と向き合いながら歩いていくその道が、六月の村のように、花と緑と人々の優しいさざめきに彩られたものであることを、私は願ってやみません。
六月の村ソーシャルワーカーズ株式会社
代表取締役
坂本那香子
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