【習作】感情と組織開発と物理学の話〜システムコーチングによせて〜
以下の文章は、書きたいことを書き切れたとはとても言えない秀作として、どうかご笑覧ください。
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私(坂本那香子)が初めて、システムコーチング®の基礎コースに参加した時のことを覚えています。あれは2019年の終わり頃、私たち家族がまだ高崎に住んでいた頃のことでした。
御茶ノ水での2日間のコース終了後、私は既にすっかり日が落ち暗くなった冬の夜道を急ぎ自宅に向かいながら、「なんじゃ、ありゃ」と頭の中で何度も呟いていました。私がついさっき、コースの中で経験したこと、あれは一体全体なんだったんだろうと、その体験をうまく消化することも、自分の中で位置付けることもできず、とても混乱していました。
「なんじゃ、ありゃ。なんか全然違うぞ」
その言葉を繰り返しながらも一方で、なにか大きな可能性がそこにあることも感じていました。私がこれまで突破できずにいたところを、この手法なら突破できるのかも知れないと思いました。それは理性的な声というよりも、私の中にあるもっと深いところから響いてくる、直感的な声でした。
その頃、私が突破できずにいた問題をもう少し詳しくお伝えするならば、それは、理性や合理性の限界という言葉であらわすことができそうです。
私は、新卒で経営コンサルティングの会社に入社し、その後ずっと経営企画やマーケティングといったいわゆる頭脳労働に従事してきました。その中で、課題をモレなくダブりなく分解するMECE(ミーシー)の考え方や、まず仮説を構築してそれを検証するためにデータ分析を行う分析手法を、日常業務の一環として駆使してきました。
したがって、合理的思考はある一定の成果をあげることができるという感覚を、実体験として持っていました。
ただ一方で、理性や合理的思考ではものごとが頑として動かない時があるということも、これまた実体験として、知っていました。
その2つの実体験の狭間で、もっと素直に自分のやりたいことをやろうとすっぱり会社員を辞め、新しい生き方を模索している、そんな時期に、私はシステムコーチング®の基礎コースを受講したのでした。
システムコーチング®の基礎コースで最初に大きな違和感を覚えたことの一つは、やたらと感情について聞かれることでした。
「今、そこにどんな感情がありますか?」
「その時、どんな感じがしたんですか?」
日常的にそう聞かれる体験を、皆さんはどれぐらいしますか?
今では私も、その質問を誰かに投げかけることも、誰かからのその質問に答えることもだいぶ日常的になりました。でも、その当時の私にとっては、自らの感情を聞かれるのは、なんだか違和感のある、あんまり好ましくない時間でした。
当時の私にとっては、特に会社において、人々の感情はほぼ存在しない、ないしは存在してはならないものと見なされていました。感情、それも怒りや失望のようなネガティブな感情は、自ら管理して他者に見せないことが強く求められていました。
「感情? それって大事なの?」
旧来の価値感から抜け出せずにいたその頃の私は、感情を問う質問になんと答えたら良いのか分からない戸惑いとともに、そううそぶいたことを覚えています。
その後、私は組織開発と呼ばれる分野には、私が新卒で入社した経営コンサルティングに代表されるような「診断型組織開発」と、昨今、様々な手法が勃興しつつある「対話型組織開発」と呼ばれる2つの大きな流派があることを学びました。
簡単に言えば、「診断型組織開発」は、組織が抱える問題を外部の専門家が他社比較やデータ分析によって客観的に診断するという手法であり、「対話型組織開発」は、「対話とは、システムがそれ自体を観る能力である」(オットー・シャーマー、『U理論エッセンシャル版』p52)という考え方に則って、質の高い対話による組織の変容を促していく手法です。
より専門的には、以下の比較表をご覧ください。これじゃ全然分かんないよ〜、でももっと知りたいよ〜という方は、どうかお気軽に私までお問い合わせください(笑)。
そして、「診断型組織開発」「対話型組織開発」とそれぞれ呼ばれる組織開発の流派が立ち上がってきた背景には、表の上部にもあるように、モダニズムからポストモダニズムへと移り変わる哲学の潮流があり、さらにその源流には、ニュートン力学から量子力学、更には場の量子論へと発展してきた物理学の発展があるということも勉強を続ける中で、徐々に分かってきました。
私は決して哲学や物理学に精通しているわけではないのですが、私たちの生きる日常が根底においていかにこれらの学問からの影響を受けているかというのが見えるようになると、そこには大きな驚きを禁じえません。
例えば、特に会社のような組織において人々の感情が存在しないことになっている理由は、近代哲学の父 デカルトと、近代科学の父 ニュートンの世界観に端を発しているのです。二人とも、ペストの大流行や戦乱の多発によってヨーロッパの人口が激減した「危機の時代」、17世期を生きた人たちです。
`この二人が思想的に切り開き、大筋で私たちが生きる現在にまで続く「近代」と呼ばれる時代においては、「科学的であること」がとても重視されています。「科学的」は、広辞苑で以下のように定義されています。
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物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま。また、思考が事実に基づき、合理的・原理的に体系づけられているさま
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すなわち、「科学的である」とは、個人の直感や主観、ましてや感情などという頼りにならないものを廃し、「客観的で再現性のある実験や論理を拠り所にして、現象の中にある本質的な法則を見出すべし」という姿勢のことです。
この考え方、会社の中だけではなく、学校や病院、政治など、色んな場所でも大事にされている気がしませんか? 例えば大学で書くレポートは事実と意見をちゃんと分けて書けと言われますし、医療ではエビデンス・ベースド・メディスン、すなわち「科学的根拠に基づく医療」の重要性が語られたりします。
一時期、どの本屋さんでも平積みになっているのを見かけた『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』という本が端的に示しているように、この「科学的」な考え方は、17世期以降の人類の発展に大きく寄与しました。平均寿命や乳幼児死亡率といった重要な指標において、私たちは目覚ましい進化を遂げてきたのです。
しかし、この考え方に基づいた発展は、徐々に頭打ちになってきました。2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2008年のリーマンショック、2016年のイギリスによる欧州連合(EU)離脱の決定、2020年のコロナ禍発生という、21世期に入ってからの一連の出来事が、私たちが生きるこの時代は、一つの大きな転換期に差し掛かっているということを鮮烈に印象づけています。
その社会の流れを先んじるかのように、科学的な近代にニュートン力学によって先鞭をつけた物理学の分野でも、大きな地殻変動が起きていました。アインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレーディンガーといった方々によって1925年ごろに確立した量子力学、その後、1兆分の1とも言われる更なる精度を求めて登場した場の量子論の発展です。
例えば、量子の粒子と波動の二重性を典型的に示す「二重スリット実験」によって、観察対象と観察者を分離できないということが明らかになりました。この実験を、リチャード・ファインマンは「量子力学の精髄」と呼んで絶賛しました。この「二重スリット実験」によると、観測者が何を観測しているかに応じて、量子は行いを変えるのです。すなわち、観察者が観察を行う前に存在した複数の可能性は、観察者が行う前には本当に結果が決まっていなかったのに、観察者が観察をすることによって、結果が定まるのです。これを物理学の用語で、波動関数の収縮と呼ぶそうです。
【二重スリット実験】
https://academist-cf.com/journal/?p=2849
これらの現代物理学が示していることは、ニュートンが当然視した客観性の限界です。非常に高い精度までは有効な考え方であった客観性は、ある一定のレベルを超えると、その先においては有効ではないのです。観察者から切り離して存在する現象、すなわち「絶対的客観」と呼べるような状態は存在しないという新しい境地に、私たちは到達しています。
さて、私がシステムコーチング®の基礎コースを受講した時に感じた強烈な違和感から、組織開発の系譜、さらには物理学にまで風呂敷を広げて論じてきた今回の文章も、ようやく結論めいたものを述べられるところまで辿り着きました。
私がこの習作としか呼べない文章で、皆さんにお伝えしたいメッセージは、以下です。
個人の主観や感情を排した客観的で科学的なアプローチは、ニュートン力学という17世紀に確立されたものの見方に基づいています。20世紀をとうに超え、20年以上も前に21世紀に突入した現在においては、客観と主観の両方にちゃんとふさわしいそれぞれの出番があるという考え方が、様々な領域でスタンダードになりつつあります。
その考え方に基づけば、その場にいたあなたの中に沸き起こった生の感情は、真実を探究するための貴重なリソースです。だから、一見ネガティブに見えるものであれ、あるいはポジティブに見えるものであれ、あなたのその感情を大切にしましょう。その上で、適切な課題に対して、適切な介入方法を見極めましょう。
人類は、まだまだこの先へと発展していくのですから。
そのための1つの訓練として、ぜひ折に触れて、ご自分やあなたの身近な人に問いかけてみてください。
「今、そこにどんな感情がありますか?」
「その時、どんな感じがしたんですか?」
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